私の中の獣 〜多動という名のギフト

2020年9月13日

最初に下記から読んでください。

吾輩は、多動である


私の中の獣 〜多動という名のギフト

私の中には、獣がいる。
普段の自分とは異なる生き物がいる。

その獣を自分で飼い慣らして生きてきた。
小さい頃の私は、なんだか落ち着かず、振り返って考えると、頭の中がなんだか「シャカシャカ」していた気がしている。

落ち着きがないとはよく親から言われた気がするが、自分としてはいろんなことに興味があったりしていただけで、習い事もいろいろ興味をもって、でも飽きやすく、いろんな習い事を習ってはやめてを繰り返してきた。
ただ、小学生のころまでは、親の転勤で何度も引越しを繰り返していたこともあり、私の落ち着きの無さは、1〜2年ごとの転校やそれに伴う学校生活や友達、習い事などの再構築には逆にプラスに働いていたと思うし、あまり目立たずに親や周りにも特段異常とまで認識すれずに成長してこれたのだと思う。学力的な遅れは特に意識したことはなく、むしろあまり勉強時間を割かないでも良い点数はとれていた。

そして中学生になる頃には、その獣は自分と一体化が進み、表面にはあまり出てこないで、心や脳の深い所に居場所を見つけて普段はそこで微睡ながら、私と一緒に成長してきた。

私は昔から、好きなことには人一倍、どころか人十倍くらい集中力が高くなる特性がある。過集中、である。

絵を描くことや、物を作ることも昔から好きだった。
小学生高学年になり、その頃流行っていて私が欲しがっていたパソコンを親が買ってくれてプログラミングにハマった。
購入してくれたパソコンがSONYのSMC-777と言う、周りの友達の持っていたPC-8001やMZ-2000といったポピュラーな機種ではない高機能だけどマニアックな機種だったこともあり、ゲームの貸し借りなどが出来なかった影響もあったと思う。結果、自分で考えてコマンドブックを調べながら夜中までオリジナルのプログラムを作ることに没頭していた。そうして作ったレースゲームなどのプログラムは中学生の頃にはBasicMagagineと言う月刊誌に何度か掲載されたり、同じ機種を持つ大人の人達の同人誌にキャラクターエディターやらアドベンチャーゲームエディターのプログラムを載せてもらうなどのレベルまで自己成長していた。このままいっていたらプログラマーやエンジニアを目指していたと思う。というかその頃は漠然とそういう職業にあこがれも持っていた。
今にして思うと、これらの集中力も、私の中の「獣」の特性の影響があったのだと思う。

その後、高校生になり、私の周りの流行に流されて私自身の興味も変化し、プログラミングからバンド活動やテニスなどの趣味にシフトした。80年代終わりから90年前半のバブル時代に高校生活から大学生活までの青春時代を謳歌し、バブル崩壊と共に大学を卒業した。
丁度、就職氷河期が始まる年に私は社会に放出された。

人はみな、なりたい自分と現実の自分とに乖離がある。
稀に「無い」と言い切れる人もいると思うがそれは僥倖であり、そういう人は若い頃から客観的に自分のことを深く理解して、自分の進むべき未来に向かって突き進んでいくことが出来ている人である。

私も社会に出てからは、自分のやりたい仕事を探して、転職を重ねたり会社を起業しては失敗して裁判で残債整理をしたりしながら、這いずり回りながら生きてきた。
私の中の「獣」の持つプリミティブな欲求やあふれるパワー、行動力が幸いすることもあったが、やりすぎたり周りと合わなくなったりしてギャップが生じたこともあったと思う。
私が社会人になって最初の15年間は、私の中の獣を私自身が認識していなかった時代である。
当然、認識できていなかったのだから飼いならすこともできず、何となく自分の中から湧き上がる衝動、リピドーに突き動かされるままに判断や行動をして結果失敗したことも多々あった。
コントロールできていなかったのである。
今の自分が昔に帰って自分に言い聞かせることができたなら、「そこではそうするな、こうしろ」と言いたくなることが多くある。
これはだれしも同様であると思うが、おそらく私のそうしたいと思う人生の分岐点は、大くの世の中の人の何倍もある。
それだけ、社会に出てからも10数年間、落ち着かず動き回ってきたのである。

 

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