私の中の獣 〜多動という名のギフト ③

2020年9月13日

今でこそ、大人の発達障害やアスペルガー、多動などの言葉が一般的になり市民権を得ているが、私が若かった20年以上前にはまだスマホもない時代でそのような言葉も世の中に認知されていなかった。

考えるにこの20年から30年の間に、世の中自体も急速にITが発達して、1人の人間が処理しなくてはいけない仕事の量が、FAXや帳簿を電卓で叩きながら一日中やって20枚処理していたのが、いまはエクセル関数やクラウドやRPAなどの進化で1時間で何百、何千枚も処理できるようになった。そしてそこで働く人間自体も派遣や契約社員、有期社員など契約自体が多様化して、皆が等しく安定して雇用が確保されていた一昔前とは比べ物にならないくらい、働いている人達や社会全体に対し負荷やストレスが大きくかかっている。いまの世の中に、子供や大人の発達障害の人が増えたと感じているのは、昔とは比べ物にならないくらい世の中が変わってしまった結果、ストレスが大きい世の中になってしまったからだと思う。人間は本来は100年前も今の人間も変わっていない。世の中が変わってしまったのである。


昔からクラスで落ち着かないやつ、鼻水を一年中出していた奴、文字の読み書きが苦手な友達はどこのクラスにもいたのだけど、その頃はそれも当たり前としてとらえ、おおらかに受け止めてみなで成長してこれた時代だった。私自身、なんとなく落ち着かない子供だったと思うし、青年時代はとにかくいろんな予定を入れたがり、遊ぶ予定のダブルブッキングも当たり前で、入るサークルも掛け持ち、そしてアルバイトも複数同時進行、と言った塩梅であった。まさに、振り返ると、多動。
当然、そうなるといろいろ立ちいかなくなってきたり、スケジュールに綻びが出てきた。また、異性関係やら友人関係、大学のテストや進級などいろんなことに手を出したり動き回る中で悩みも増えてきて、夜に寝付きが悪くなったりもした。


この頃、自分では、自分の積極性やタフな体力に漠然とした自信を持っていた。予定のダブルブッキング、トリプルブッキングも「忙しくいろんな友達と遊ぶ人気のある自分」「複数の予定を並行して渡り歩いて活発的な刺激的な生活を送れている俺」だと思って、あまり深く反省したり改善しようという考えはなかった。

しかし、そんな生活を送っていると、こまかいトラブルや問題も重なっていき、今後の自分の近い将来への不安を抱えるようになっていった。昼間はサークル活動や友達との今後の遊びの計画、アルバイトなどで忙しくしていて考えないようにしていても夜になるといらいら、悶々とするようになっていった。
ある時、もうこれ以上もんもんと悩むことが嫌になって、深夜にむくりと暗闇のなかで目を覚まし、起き上がって自分の抱えている問題を片っ端からノートの切れ端に書き出す作業を始めた。
それらの問題・課題をテーマごとにまとめ、その問題がどうなったらどうする、でもそうならなかったらこうする、というように、今の時点で自分として考えられる対応策を2段階、3段階くらいまで書いてみることにした。
おそらく最初は数時間かけていたと思うが、出来上がったメモをみると、わたしの頭の中の問題がすべて網羅されたものになっていた。


そうなると、もうこれ以上考えても時間の無駄である。
よって、考えることをやめて眠ることができる。
この時から、私は「悩む」事をやめた。それは今に至るまで変わっていない。


「悩む」ことは答えを出せず悶々と堂々巡りをすることであり、「考える」事は自分の中で課題を認識してそれについて対策を考えること。
その両者は似ているが全く別物であると体感した。根本から異なる行為である。


それ以降、自分はこの営みを実行するようにしたおかげで、悩まないで生活できるようになった。しばらくこういう思考体験をしていると、そのうち紙にも書かないでこのようなプロセスができるようになった。※まあ、多少の悩みはしますけどね・・・

社会人になってもう20年以上たつが、今でこそこの時のプロセスは課題の対策やロジカルシンキングとして基本的なことだったのだと理解できるが、その時はそんなことは全く考えず、必要に迫られて自分自身で編み出して実行してみたところ、思いのほか自分にとって良かったので、それ以降続けてきている考えかたのベースとなっている。

ただ、この考え方をもってしても、その後の上記に書いたような転職活動や社会生活の中での失敗などは防げないことも多々あった。
そして、面接官の方に指摘された「過去の自分の失敗に向き合うこと」が本当に自分で理解できた後、これらのロジカルシンキングや自己分析、課題分析のやり方が真に効果を発揮し、「私の中の獣」を飼いならせるようになるのだと気づいた。
コントロールである。
しかし、まだコントロールできていない時がある。それが今の私の課題である。

ここまで気づいて思い至るのに、自分の人生の何十年もかかった。

私がこれを書いているのは、「多動」だけではなく、それ以外の多くの人々も、同じように自分のことが本当にわかっていなかったり、現実との乖離に悩んでいる人が多いと思ったから、自分の半生がそういうほかの人たちのこれからの生き方に少しでもヒントになるかもしれないと思った事、と、あとは自分の半生を振り返ってみたいという欲求の表れである。

吾輩は、多動である